僕は何がしたくて生きているのだろう。
僕はどこに楽しみを求めればいいのだろう。
僕は「人並みの生活」を求めているだけなのにな。現実的に解決可能な手段がない。
もっとお金があれば、色んな所に出かけたり、いっそ大学に入り直したりすることもできるのに。動くためのお金もなく、何かに属するためのお金もない。
春とかだったら、もしかしたらバイトとかできたかもなのになと後悔する日々である。今からそういう「日常的な場」を作ることがいかに困難か、少し考えるだけでも気づいてしまう。僕自身、バイト以外に方法が思いつかない。
オケも試した。ボランティアにも行ってみた。twitterを活用して人に会ったりしてみた。でも、それでも僕は満たされない。だってそれは「日常」ではないもの。やはりそこは、誤魔化しが利かなかった。
インターネットを通じて友を探そうにも、結局物理的な距離が「それは僕の求めている"日常"ではない」と感じさせてしまう。
そう、最初は僕は「友達」が欲しいんだと思っていた。でも、そうじゃなかったんだね。
僕が欲しいのは、誰しもが持っているような日常風景であって、知り合いだったり、恋人だったり、そーいうんじゃないんだと。
それに気づいてしまうと、余計に自分の立っている状況が救いようのないものだと気付かされてしまう。現状、自分が救われる道が自分では見つけられないのだ。
ヴィオラもやめる決心がついてしまった。僕は今年度一杯で楽器をやめることにした。
弾いても上手くなるビジョンが見えなくなってしまった。自分の奏でたい音が奏でられる気がしなくなった。才能の壁を乗り越えられなかった。
とはいえ、せっかく買ったし、関連企画もあるので完全に離れられるわけでもないが、「演奏家」ではなく「愛好家」としてヴィオラとは接していきたいなと。
これは、自身の中で、「気力」と呼ばれるものが消え去ってしまったことに一因があるのだろう。だから、またやりたくなる時まで、楽器は封印したいと思っている。
もう僕は、何かを頑張るだけの精神的余力が残されていないのだ。
最近、何もかもが上手く行かないし、自分が何をしたいのかも分からないというか、したいことはあるけど、それを続けられるビジョンがなくなってしまった。
自分の持っている牙が日に日に抜かれていくような感覚がする。自分が空っぽになっていくのがわかる。何かしたいけど、何もしたくない。すっかり負け犬になってしまった。
自分の感情を救い出す具体的な手段は知っている。「楽しいこと」を探すことだ。
「楽しい」という感情こそ自分が求めているものであり、それで満たされている間は苦しまずに済む。
きっとそれが、今までヴィオラを弾いている時間だったのであろう。しかし、そのヴィオラが自分を苦しめる要素に変わった時、僕は辛い思いを感じるようになった。
人間誰だって、苦痛から逃げたくなるものだからね。普通なら、息抜きをして練習に励もうと思えるのかも知れない。でも僕には、辛い時の逃げ場がない。何をしても悶々とするだけになってしまった。その逃避先がポケモンであったのだが、今度はゲームのしすぎによる肉体的な疲れがでてきてしまった(笑)
それと同時に、自分自身がこうやって、早く時が過ぎて欲しいからと時間を食いつぶしている現状に対しても、やはり勿体なさを感じてしまい、満たされない気持ちが湧き上がってしまう。
そう、何をやっても嫌になるのだ。文字通り、生きる気力をなくしている。
それでも死ねない理由があるし、まだ未来に希望が残されている。だからただ、その時が来るまで時間を消費する。でもそんな現状にも嫌気が差す。かといって、自分でできることが思いつかない。何をしたら楽しいのかが分からない。
楽しそうなことには全てお金がかかる。しかし、そのために別にやりたくもない単発バイトを入れるのは完全に目的と手段が入れ違っている。
それに、お金をかけて確実にいい思いができるわけでもない。お金があれば確実に自分の求めるものが手に入るのだとしたら、僕は喜んでお金を稼ぐだろう。でも、「日常」をお金で買うことができるかい?そんな場所、どこにあるんだい?
僕は人と話したい。でも話せる人がいない。会える人はみな遠い距離にいる。誘って、会って、その時は楽しい。でもその後は?そんな毎日喋れないでしょう?それで結局僕に何が残るというのだ。
何をやっても嫌気しか残らない。練習も思い通りに行かなくてつらい。twitterで人と知り合ったところで、もしかすると「友達」にはなれると思うけど、結局それは僕の求める「"日常的な"友達」ではないのだ。なれないのだ。
僕が欲しいのはただの友達じゃない。「"普通の"友達」である。そのことにはとっくの昔に気づいている。毎日とは言わないけど「話したい時に話せる」というのが、僕が一番求めているものである。
オーケストラという場は、そういう意味では構造的に厳しいものがあった。
僕は、いろんな人とお近づきになりたい。話したい。でも、行ったらすぐ合奏が始まる。会場が開く前の時間は、既に皆が仲良さそうでいきなり話しかけるのもなんだかなといった感じがした。同じパートの人であればよいのだが、ヴィオラという楽器はマイナー楽器である。それに、見ず知らずの人に対して、いきなり出していける話題ってなんだろう。
一緒に飲むことができれば、そこはフリートークができる場であるからどうとでもできるだろう。でも、その機会を能動的に作るのは難しい。
頻度が問題なのかと思い、地域のオケに見学に行ってみた。
でも、よくよく考えてみたら、他パートの人とどこで会話するんだろうという疑問が沸いた。そして同時に、お互いの存在を認識していないことにも気づいた。
オケという構造は、母体が巨大すぎて、コミュニティの場としては機能していないのではと。
もちろん、母体が大きくてもコミュニティとして存在することはできるであろう。でも、パートが別れており、かつトークする時間が用意できないとなれば、どうやって仲良くなるのだ?果てしない努力と時間が必要になるだろう。
そう、オケというのは演奏する場であって、友達になる場ではないのだ。きっと。
いや、団体によっては違うのかも知れない。でも、成功するビジョンが僕には見えない。会話をするための時間が少なすぎる。きっと、無理なんじゃないだろうか。
そう。自分の気持ちを明るくするのに一番必要なものが分かっているのに、それがどうしても手に入れられないのだ。
友達の作り方を調べたりもしたけれど、やはり皆が悩むということは、それだけ友達を作るのが難しいということなのだ。放っておいてもいろんな人と出会えた学生とは違うんだなと。
そんな自分の閉塞した現状をごまかすためには、どうしても「孤独を忘れる楽しい時間」が必要なのだ。
これ以上、自身が病まないためにも、自分で自分を守らなくてはいけない。あと、3ヶ月の辛抱なんだ。もう、地獄の折り返し地点は過ぎていることは知っているんだ。
でも、その辛抱を、少しでも軽くするために、僕は努力しなくてはね。
だって、希望を捨てて苦しんでいるのが現状なんだもの。
人が生きるには「夢」が必要なのは、僕が一番よく知っている。「夢」なくして生きることの辛さを、僕は今まさに体感している。
だから、自分を誤魔化すために、その「夢」を僕は見つけなくては。かつてヴィオラだったそれに、とってかわるものを・・・・・・!!
そんな、「楽しいこと」を追い求めるのがこの最後の3ヶ月の課題となるだろう。
人間と喋ることが許されるようになれば、きっと自然にそれが息抜きにつながるはずだ。それまでは、自分で頑張らなくてはいけない。自分を支えられるのは、現状自分しかいないのだから。
ただ「頑張る」という苦痛を感じないものがいい。たぶんそれは「プログラム」と「作曲」だと思う。努力のカテゴリが"練習"でないものである。
いまの僕には「夢」「希望」そういったものがなく、空っぽであることだ。
何をするにも気力が要る。その気力を生み出す源が、僕から消えてしまった。いまの僕は、ただ自分が救われることを、自分が真人間に戻れることを信じて4月が来るのを待っているだけ。
こういう話を日記で書くのは、あまり気の進まないことである。
あたかも救いの手を求めているように思う人がいるかも知れない。いや、実際、救いの手は欲しいと思っている。誰かが自分を助けてくれたらなとも思っている。
でも同時に、それが不可能であることも知っている。現実的な解決手段は、ただ食って寝てを繰り返し、社会の歯車に組み込まれようやく動き出せるその日が来るのを待つだけなのだ。
それに、同情で救ってもらうってのは、結局それは僕の求める「日常」じゃないのだ。僕は不自然でない、人並みの生活を送りたいだけなのだ。
もし仮に、つらいなら話し相手になるよなんて言ってくれる人が現れたとしても、自分から誘わなくてはいけない時点で「日常」じゃないのだ。話を聞いてもらうとか、遊んでもらうとか、そんな深刻な話でもないのだ。別に、悩んでいるわけでもないのだ。自身が置かれている環境の問題なのだ。
第一、「救いの手」から始まってしまうのは、結局僕の欲しい「友達」という概念とはまた異なるものに自身が感じてしまうのだ。
友達ってのは、もっと、余計なことを考えずに済む、複雑じゃない関係のことを言うのではないのか。かつて自分が持っていたそれと、同じように。
例えば、友達に「会いに行こう」って思って会いに行くことって、実はそんなにないでしょう。ばったり出会うとか、あるいは普通に生活してたら会ってしまうとか。僕はそういうのを取り戻したいだけなのだ。
もちろん、知り合いに会いに行くのも楽しいものだ。でも、最初に述べた通り、それで満たされるのは一瞬のうちなのだ。
まぁ、要するに、自分でもわかっていないのだ。でも、自分を満足させられる存在を能動的に作り出すことが難しいことだけは、分かっている。
こんな自分の気持ちはきっと誰にも理解されないだろうし、知らない方が幸せであることは僕が一番知っている。
だから僕は誰かに無理に縋るつもりはないし、分かって欲しいとも願ってはいない。それはいつか、誰かに語れたら良い話なのである。
でも、この時期に自身に芽生えているこの鬱々とした感情をこうやって記して、記録に残しておきたいと思った。それだけの話である。僕は確かにいま、苦しいのだ。嫌で嫌で仕方ないのだ。全てがとてもとても嫌なのだ。
この僕の話や気持ちが理解できない、そんな人ばかりであることを、僕は願っている・・・・・・。
理解できないということは、きっとそれだけで、とても幸せなことだと思うんだ。苦渋の味なんて、知らないほうが幸せなんだ。